おおきなかべ

皆さん、お元気ですか。
 私は今、チェンマイのアパートのベランダに閉じ込められています。
彼是1時間以上になるでしょうか。
チェンマイは北方の薔薇とも呼ばれ、歴史と文化の豊かな古都です。一年を通して、温暖で過ごしやすい気候で、避暑地としても人気があります。
そのチェンマイのアパートで、深夜に一人ベランダに閉じ込められているのです。
 フェイスブックをご覧の皆様におかれましては、以前、部屋に蜂が入ってきて大騒ぎになったエピソードを覚えていらっしゃることでしょう。
それからというもの、私はどんなに短時間でも戸や窓を開け放さないように重々気を付けておりました。サッと出てサッと閉める。サッサッ。ガチャ。勢いが良すぎたのでしょうか。鍵がかかってしまったのです。日々の習慣がこんな形で裏目に出ようとは誰が想像できたでしょうか。

 暫く、窓を押したり引いたり叩いたりガチャガチャしたりしてみましたが、無駄でした。人間はなんと弱い生き物なのでしょうか。窓ひとつ、自分で開けられないのです。
今は、力なくして座り込み、ガラス越しに自分の部屋を眺めています。それしかすることがありません。独居房の窓から眺める自分の部屋はまるで他人のそれのようです。

 部屋に蚊がいるのが見えます。
 結局、蚊が入るなら、サッと閉める必要なんてどこにもなかったと、今更になって気が付きました。でも、もう遅い。私はお天道様に顔向けできないようなことをして、既に独居房の中にいるのですから。こんなことなら、蚊でも蜂でも皆で仲良く暮らせばよかったのです。私は自分の心の狭さを憂いました。そして、自分の犯した罪を呪いました。部屋の中の蚊は外に出よう出ようと、何度も窓ガラスにぶつかって来ています。
蚊よ、私はお前が外に出たいのと同じぐらい中に入りたい。いっその事、私は蚊になりたい。

 そうこうしているうちに、これは結構まずいんじゃないかと思い始めました。私の部屋は3階です。飛び降りることもできない。飛び降りたところで、今度は中に入れない。窓を割るにも物がない。取敢えず人を呼ばないと。
 幸い、同じアパートに学校の先輩が住んでいたので、彼にLINE電話をかけてみました。しかし、先輩は電話に出ませんでした。深夜に後輩からの電話で起こされる、迷惑以外の何物でもありません。私は幾分ほっとして、それから、「ほっとしている場合ではない、次の手を考えよう」と思いました。何とかしてここを出なければならない。ずっと考えないようにしてきたけれど、もう見て見ぬふりはできない。今、受け止めよう。おしっこを漏らしそうだというこの現実を。

 タイに来て早二年半、一度も使ったことがない奥義、「チュアイドゥアイ」を叫んでみました。多分、酔っ払いの痴話喧嘩だと思われたのでしょう、私のチュアイドゥアイは闇に吸い込まれていきます。確かに私は酔っ払いです。しかし、断じて痴話喧嘩などではありません。第一、相手がいない。これは本気のチュアイドゥアイなのです。

 十回ほど、本気のチュアイドゥアイを繰り返していると、なんと、奇跡的に上の階の住人が気が付いて、アパートの管理人を呼んでくれたのです。こんなにタイ語を勉強してよかったと思った瞬間はありません。しかも、彼らは私を励まそうと、管理人を呼びに行った後もタイ語で色々話しかけてくれました。でも、分かったのは、「お腹空いてない?」ぐらいのものでした。如何なる時でもご飯のことを気にしてくれるタイ人のやさしさに、胸が熱くなると同時に、もっとタイ語を勉強しようと強く心に誓いました。
 彼らは「アパートの管理人がドアを開けてくれるから、そしたらベランダの窓も開けられるはず。ちょっと待ってて」と言ってくれました。それはまるで一縷の蜘蛛の糸のように感じられました。下からは守衛のおじさんが「落ち着いて。もうすぐ人が来るから。お腹空いてない?」と気遣ってくれます。それはまるで、キキとトンボが降り立った消防隊のマットのようでした。
 ああ、助かったとドアの方を見遣るとなんと、チェーンがかかっているではありませんか。ガッデム。これでは合鍵があっても意味がありません。私が死体なら、密室での完全犯罪成立です。上の階の人にチェーンのことを説明しようとしたのですが、なかなか伝わりませんでした。
 と、そこに、先輩から折り返し連絡が来ました。これまでの経緯を説明すると、タイ語が堪能な彼が独居房と娑婆とをうまく取りつないでくれ、LINEで励ましてくれました。(空腹か否かは聞かれませんでした。)
 上の階の住人はわざわざ部屋まで来て、チェーンを外そうと色々試してくれました。窓越しに手が出たり入ったりしているのが見えます。先輩から管理人、守衛、上の階の人が、ドアの前で奮闘している写真が送られてきて、私は先ほどと同じ独居房にいながらも、自分の無罪を信じることができました。
 私たちの熱く辛い戦いは30分以上に及びました。廊下側から何度もドアを開けたり閉めたりしています。ドアの隙間から伸びる手やドライバー。開かない扉。響く騒音。迫る尿意。焦る私。膀胱は最早ショート寸前。思考回路をそらすべくバンコクの友人にLINEを送ると、返ってきたのは「WoW! R U Hungry?」でした。危うく軽く漏らすところでした。

 うんとこしょ、どっこいしょ。まだまだドアは開きません。そこで、管理人さんは鍵屋を呼んできて、手伝ってもらうことにしました。ドアを鍵屋が、鍵屋を管理人さんが、管理人さんを先輩が、先輩を上の階の住人が、ひっぱって…うんとこしょ、どっこいしょ。やっと鍵が開きました。おしまい。